「自然を楽しむ」という事は、人によっては「ピカソの絵を楽しむ」
ということと同等だったりする。
作家、田口ランディさんも、そのようなことを考えたようです。
彼女はヘゴの樹を、岡本太郎の女神の彫刻と似ている、と思ったのだって。
ランディさんは水俣病フォーラムでちょっとお話を聞いてから、
わたしの中で気になる人だった。
水俣で感じたことをとっても激情的に語る彼女を見ていて、
この人はどんな言葉の織り方をするのだろう、と考えていた。
幸いなことに昨日、彼女の本に偶然にも出会った。
電車の中、ざっと一時間。一気に読み終えた。
この本は物語ってわけじゃないけど、エッセイというほど、自分を中心に置いていない。
舞台は屋久島だ。
学ぶことが多かったので、思いついたこと、気になった言葉をとりとめもなく記しておきます。
植物は人間の見方。
でも、私が最初に感じたことは、ちょっと違った。
そんなふうに、自分の側に引き寄せて植物を思えなかった。
この存在は、なにか違うものだ。とてつもなく違うものだ。
人間とは根本的に違うものだ。
わたしも、植物をわたしと同じ部類だとはなかなか思えない。
何か違う領域、彼らはその魂をどこか遠い聖域に置き残しているような気がする。
だから「地球にやさしく」とか、ちょっとわたしは賛同できない。
サンゴは樹と違って動物なのだけれど、かなり変わった動物だ。
自分の中に単細胞の植物をたくさん共生させていて、
その植物が光合成をして食べ物を作ってくれる。
だからサンゴは動き回ってエサを捕獲しなくてもいい。
ならば人間はなぜこんな面倒な仕組みの体を持っているのだろう。
サンゴみたいだったら欲のひとつがなくなって、
もうちょっと平和に暮らせるかもしれないのに。
悪女ヤマグルマに抱きつかれたヤクスギが
ぎゅうぎゅう締め上げられている図をいくらでも見かける。
でも、この二人の関係がどうなるかは、たぶん2百年くらい経たないとわからない。
その頃はランディさんもわたしも、そしてあなたもこの世に存在していない。
人間はなんて空しいのだろう。
恋愛ドラマのひとつも見届けられないなんて。
人間はどんどん森林を伐採してジャングルを消している。
植物は消えている。
それなのに酸素濃度の量は変わらない。
考えてみればとても不思議なことだ。
ニュースの一面に「酸素不足です!」なんて書いてある日は一度もなかった。
なんで?植物が必死にがんばっているのかな?
そもそも酸素がなくなっているなんて、気づく力を持っているのか?
アイヌの民族は一本の樹を切ったら新しい樹を植える。
そういう循環が、自然界の中でうまく働いているのかもしれない。
人間は女性の性器にこの花(蘭)のデザインを取り入れた。
カミ様の遊び心とセンスに脱帽だ。
そのスギは、とってもハンサムに見えた。
若くて、男らしくて、かっこよかったのだ。
ようするに、私は惚れてしまった。
びしょ濡れになるって、けっこういいんだ。
びしょ濡れになる快感って、ある。
海から陸に上がってきた生き物は、自分の内側に海を封じ込めた。
そしてのろのろと地上に現れた。
辛かっただろうなあ、海から上がった最初の生物。
ダイビングした後、タンク背負って陸に上がるとき、私はいつもそう思う。
重力の中を生きるって過酷だ・・・と。
人の体は70%が水。
「山が在って
その山のもとを
水が流れている
その水は うたがいもなく わたくしである
水が 流れている
水が 真実に 流れている山尾 三省」
「地下鉄の
鉄骨にも
一本の電柱にも
ながれている血がある
そこでは
血は
立ったまま眠っている寺山 修司」
ランディさんは14歳のときに寺山さんにファンレターを送って
「あなたには文才がありあます」と返事を貰ったらしい。
この詩は、生きる意味を失った人たちとリンクさせることができる。
森に入ると、不思議とわたしの血が騒ぐ。
わたしは自然を愛していて、
そして愛されたいと、心底、望んでいる。
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