専業主婦と働く女性という二つの生き方は、どこでどう分岐したんだろう・・・という疑問から、この本は作られたようです。
欲望史観という見方で、明治の女性から平成のわたしたちへと・・
丁寧にわかりやすく時代に沿って追っていってくれます。
じゃあ、今のわたしたちはどうすりゃいいの?!っていう点がちょっとなかった気がするけれど、
かなりの情報を得ることができます。
以下はわたしにとって大切なところをメモしたので、必要ならばご参照あれ。
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20世紀の初頭、明治30~40年代には「海老茶式部」の異名をとる高等女学校の生徒たちが注目をあびていた。
「海老茶」とは彼女たちが身に着けていた袴の色。そんなふざけた服で学校に通うけしからん娘たちだから「紫式部」ならぬ「海老茶式部」というわけだ。・・・・・・
・明治末期風女子学生の記号・・・・・・束髪&リボン(頭髪)・海老茶袴&靴(服装)・てよだわことば(「よくってよ」「いやだわ」「~なのよ)など
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女学生の服装を、着流し(普通の着物)から、袴にも出るチェンジしたのは1898(明治31)年、東京女子高等師範(現お茶の水女子大学)付属高等女子学校が最初である。この袴、性格には「行灯袴」とか「女袴」という。またの割れたパンツ式ではなく、すとんとしたスカート式に仕立てた袴のことだ。
当時の教育界には、女子にも運動させることが必要だという風潮が高まっていた。
行灯袴は球技をしても自転車に乗ってもすそが乱れず、といって股の割れた「男袴」とも違う画期的なアイテムだった。
活動的でしかもフェミニン。機能性に優れたこのスタイルは、かくしてあっという間に全国の女子学校に波及した。26
女子教育目的として、そこには力強い一文が含まれていた。「賢母良妻たらしくるの素養を為す」近世までの女子教育会で幅を利かせていたのは「女大学」である。女大学とは、江戸後期から明治まで広く読まれた婦女子の為の教育書のこと。
とくに有名なのは1716年に出版された『女子大学宝箱』である。
「幼にしては親に従い、嫁にしては夫に従い、老いては子に従い」
の「三従」なんていうのも、中国の儒教道徳をもとにした女大学の教えである。28
私はこう思う。良妻賢母思想は娘たちとその親たちに、進学の大義名分を与えたのだ、と。
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ブルーストッキング197
戦争は変化を求めていた人々の気持ちをパッと明るくした。
保守的で頑迷な昔風の女性ではなく、前向きで活発で近代的なセンスをもった女性ほど、戦争にはハマりやすいのですよ、みなさん。223
1960年の所得倍増計画から73年の第一次石油ショックまでの期間を、一般的に「高度経済成長期」という。227
こうした若い女性の事務員は、サラリーガール、BG(ビジネスガール)などと呼ばれ、かつての職業婦人同様、憧れとからかいの。的になった。231
BGはやがてOL(オフィスレディ)と名前をかえ、今日にいたることになる。・・・発端は、この年(1963年)、NHKの放送用語委員会が発表したことである。
「米国でBGといえば、売春婦、商売女のこと。悪い意味に取られるので、放送では使いません」
これに呼応した『女性自身』が、誌上でBGに変わる新名称を募集。
2万6000票もの読者投稿の結果、トップに輝いた新語こそ「オフィス・レディ」だった。
ちなみに、このときの候補にあがったほかの名称は、僅差で次点に甘んじた「オフィス・ガール」をはじめ、三位=サラリー・ガール、四位=キャリア・ガール、五位=ビジネス・レディ、六位=オフィス・ウーマン・・・・・。257
彼女らにとって決定的だったのは、60年代末の学園闘争であった。
「革命さえおこれば、性差別なんて解消するのさ」と男たちはいっていた。彼女らもそう思っていた。
ところが、バリケードの中で女子学生がさせられたのは、ガリ切り、ビラまき、立て看板書きといった補助労働だけ。執行部に女は入れず、食事の世話や救護活動に回される。加えてセックスの相手。
冗談じゃないわよ。これじゃ主婦といっしょじゃないの!ていうか女って何?日本のウーマンリブは、そんなふうにはじまったといわれる。
リブとは特定の運動体をさすのではなく、日本全国で同時多発的に生まれたグループ、あるいは個人の総称である。
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