『なんとなく日本人』、ちょっと難しそうだな、と思ったのですが、丁寧です。
日本人は、日本人なんだけれど、日本人とはなんなのかよく分かっていない。
探っても探って出てこなくて、それはリンゴの芯のように中央にドーンとあるわけではなくて、
むしろ、むいた後にでてくる玉葱の皮ようなものか、葡萄の一粒一粒のようなもの。
でも今後グローバル社会の中で生きていくには、改めて日本人について考える必要があるでしょう!
というのが著者の考え方。
*メモ*
P43
このように輪廻からの解脱ではなく、それを前向きに考えてしまうという点では、日本人は仏教徒ではないのである。
関係性があれば、虫で何が悪いのかと言うことである。
P47
日本人は「モノ」を、主観を排除し時間的推移変動の観念を含まない、安定的かつ客観的な対象であると考える。
一方で、「コト」とは対象と主観を分離することなく抱合し、
時間的に進行する(主観が対象を通して経験する)不安定な事象である。
このように日本人の世界観の成り立ちが、主体を分化せず、客観的に対象化せず、
距離の無い「コト」中心である事を、我々日本人は十分に認識しておく必要がある。
p83
重心が自分ではないことが、日本人の自己構造においては重要である。
ここで私を意味する「自分」という言葉を思い出していただきたい。
みずから、おのずから(=自然に)分けるとは何を意味するのか。
関西では依然として「自分」を二人称として使う。
やはり日本の一人称は、一人称を不可分と考える欧米とは大きく異なるのではないか。
つまり、欧米では「You」と「I」は相互排他的であるが、一人称が必ずしも「Individual」ではない日本語においては、
「あなた」と「私」は相互排他的ではないことをご理解いただけるのではないだろうか。
p85
仏教の本来の目的は覚者となることであり、覚者とは、「真理に目覚めた」、悟った人の意味である。
ここでいう真理とは、仏教でいう真理であり、西洋哲学で言うところの普遍的真理でもなければ化学的真理でもなく、「縁起の理」を指している。
「縁起の理」とは、この世の「すべてのものが関係しあって互いの存在を支えている」という事である。
P132
これを中根千枝がいうように、「『ウチ』と『ヨソ』の意識が強く、この感覚が尖鋭化してくると、
まるで『ウチ』の者以外は人間ではなくなってしまうと思われるほどの極端な
人間関係のコントラストが、同じ社会にみられるようになる。
p140
つまり、日本人には論理性が無いのではなく、欧米人とは、論理の整合性をとる境界が違うと考えるべきなのである。
p174
筆者は、「空」も禅もきわめて日本的解釈がなされたものではないかと思っている。
そもそも「空」とは、サンスクリット語でSUNYA(シューニャ)といい、
「~を欠いている」、すなわち、数学の「ゼロ=0」を意味する。
・・・・「SUNYA」の概念を仏教の理論として大成したのは、大乗仏教の祖といわれる2世紀から3世紀のバラモン出身の仏教僧、ナーガルジュナ(龍樹=中観派の祖)であるといわれている。
ナーガルジュナが行おうとしたのは、輪廻からの解脱のために、仏陀の「縁起の理」を無自性するという概念として提示することによって、その思想をいっそう徹底することであった。
その理念体系に当たってナーガルジュナは、「SUNY」Aというゼロの概念を仏教の教えの中に体系的にはめ込んだと考えるべきであろう。
・・(略)・・つまり、「空」は日本に入ってきたときに、「くう」から「から」へ変わった可能性がある。
日本人「空」という感じに「から」という「やまとことば」をあてたのである。
・・・インド人の考える「ゼロ」が数学的質量ゼロであり、論理の世界の概念であるとすれば、
日本人の「から」は「無」であり、主観を排除した直感の世界であり、一貫した論理=理性の世界ではない。
P217
外国人や保守派が尊ぶ過去のノスタルジックな日本は、本来の日本の強さを意味しない。
日本の強さとは、内向きな役割の精緻化と「絶え間の無い外部の新規性の取り組みとその無化のプロセス」なのである。
P228
日本人の強さは、特異な高度文脈依存の視覚言語である日本語にあり、//(なんでも視覚化する。茶道などの型。日本独特の食品サンプル。絵文字。)
特異な相互強調的かつ相対的な自己構造にあり、特異な個別化されない間主観性が根源的自発性を持つことにあり、
境界を設定し、そこから内を向いて、役割の徹底的な精緻化を始める特異な思考にあるのである。
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